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夏の素謡と仕舞の会


2018年 78日 (日) 11:00開演(開場10:30)

演目
「通小町」 Kayoikomachi

浦田保親

八瀬の山里で夏篭りをしている僧のもとへ、毎日木の実や薪を届ける女がいます。不審に思った僧が素性を尋ねると、市原野に住む姥であると答えます。女の言葉の端々から、これは小野小町の幽霊だと確信した僧は、市原野へ行きその跡を弔います。

やがて小野の幽霊が現れ、僧の弔いを謝しますが、それを妨げる者が現れます。

昔小町に恋をし百夜通いを約束しますが九十九夜で息絶えた深草少将の幽霊です。僧に乞われるまま、百夜通いの様子を語る少将。かつて小町に諭された「飲酒戒」を守ったことで、最後は小町、少将共に成仏します。

初めの木の実尽くしの牧歌的な謡と、後半は一転、小町と少々の烈しい恋情と妄執の掛合が聴きどころです。

 

「杜若」 Kakitsubata

河村晴久

旅の僧が三河国八橋に着き、今が盛りの杜若に見入っていると、一人の女が現れ、「伊勢物語」にある八橋の地の謂れと、在原業平が后高子を想い「カキツバタ」の五文字を句の始めに置いて詠んだ和歌「らころもつつなれにしましあればるばるきぬるびをしぞおもふ」を教え、自分の庵に案内します。

やがて、女が歌に詠まれた唐衣と業平形見の初冠を身につけ僧の前に現れます。実は自分は杜若の精であるといい、「伊勢物語」にある業平の恋物語を語り、業平の和歌は経文となり草木花までも成仏するのだと教え、自身も仏法を得て消えてゆきます。水面のきらめきと杜若の紫。夏の幻想的な風景を思い浮かべながら聴いてみてください。

「砧」 Kinuta

観世清和

九州芦屋の某は訴訟のため在京してすでに三年、留守を守る妻の元へ、この秋には帰るとの知らせを持たせ夕霧を遣わします。

妻は夫の長い不在の寂しさを慰めるように夕霧を相手に砧を打ちます。蘇武の妻が夫を想い打った砧の音が胡国の蘇武に届いた、という中国の故事を引き、一心に砧を打ちます。砧の音に寄せて吹く風、月の色、牡鹿の声、虫の音、置く霜…と物悲しい晩秋の情緒が謡われます。そして露が落ちるようにほろほろはらはらとこぼれる涙。しかしやがて、暮れにも夫は帰れないとの知らせが届き、妻は絶望のうちに命を落とします。

妻の死を知って急ぎ帰った夫の前に妻の怨霊が現れ、夫の心変わりを責め立てますが、法華経の力で成仏します。

「恋重荷」

大江又三郎

白川院で菊の世話をする老人・山科荘司は、ふとしたことから美しい女御を見かけ恋に落ちます。女御は、到底持つことの出来ない重荷を美しく仕立て「この荷を持って庭を巡ればきっと姿を見せましょう」と臣下に伝えさせます。しかし、もとより持てるはずもなく、荘司は恋の成就しないこと、女御に弄ばれた事を恨みながら死んでしまいます。

そのことを聞いた女御は、庭で荘司の死を悼みますが、立ち上がろうとして身動きができません。そこに荘司の霊があらわれ女御を責め立てます。しかしついには、葉守りの神となってあなたを久しく守りましょう、と言い消えてゆくのです。

会場
京都観世会館 Kyoto Kanze Kaikan
料金
一般前売:¥4,500 一般当日:¥5,500 学生:¥2,500

*林宗一郎は「砧」の地謡にての出演となります。

*お能の公演ではございませんのでご注意ください。

*素謡とは:

能の台本(謡本)を、舞台上で謡う演奏形式です。謡うこと・語ることで情景や心情を表現します。能には「源氏物語」や「平家物語」などの古典を題材にした名作が多く伝わっており、詞(ことば、詞章)の美しさは高い評価を得ています。素謡は、その「謡うこと・語ること」のみのシンプルな表現の面白さから、大正の頃より大変な流行となりました。

また、京都には歴史的に「京観世」と呼ばれる「素謡」の文化があります。江戸初期寛文の時代、服部宗巴(はっとりそうは、九世観世大夫黒雪の弟、後に福王盛親)が、西陣にあったといわれる観世屋敷で謡の教授をしたのが始まりです。

以後、京都では能だけでなく、人々が謡だけをたしなむ「素謡」というジャンルが好まれ、連綿と受け継がれてきました。戦前は京の辻々で謡の声がよく聞かれたようです。情緒豊かな「素謡」をライブでじっくりと"聴いて"みてください。

*仕舞とは:

能の一部(見せどころ)を、紋付袴姿で謡にあわせて舞う演奏形式です。ほとんどの曲は扇を持ちますが、演目によっては長刀や杖などを持つものもあります。

舞い手の骨格が見えやすいので"能のデッサン”と評され、演者の個性と技がじっくり楽しめます。数分の演技で能の醍醐味が味わえます。

 


この公演は終了いたしました。


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