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お知らせ

「林能楽部」能・国栖”GINZA de petit能2021/12/7 文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業”

お知らせ2021年12月31日

「国栖」

作者不詳 五番目物  季節:春

(子方・浄見原天皇、ワキツレ・輿舁、ワキ・侍臣の入場)

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思はずも 雲居を出づる春の夜の 月の都の名残かな

大友皇子に都を追われた浄見原天皇(後の天武天皇・子方)*1。

推古天皇の時代に薬狩り*2が行われた宇陀の御狩場を外に見て、牡鹿が伏せっていると言われる春日山を過ぎ、春雨で水嵩の増した吉野川の音を聞きながら吉野の山中に到着します。

(*1:史実と能には誤差がある事ご承知おきください。)

(*2:男性は狩り(鹿の角からとる鹿茸の為)、また女性は薬草摘みを行った。後に天武天皇も行ったとされる。)

 

一行は慣れない山中を強行で歩き続け、川沿いの一軒家を見つけそこで休む事にします。するとその家の主の老夫婦*3(シテ・ツレ)が帰ってきます。

自分の家の上に紫雲*4がたなびき、常ではない空気を感じた老夫婦は、そのただならぬ気色について話しながら自分の小屋へと戻ります。

そして家の中を見ると、やはり玉の冠に直衣姿の高貴な方がいらっしゃったのでした。

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露霜でしおれてはいるものの紛れもなくやんごとない御方に、恐れ多い事と言いつつも安心してお休みください、と老夫婦は歓迎するのでした。

(*3:老夫婦のおじいちゃんを「尉(じょう)」おばあちゃんを「姥(うば)」と言います。)

(*4:むらさき色の雲。めでたい印とされる。国栖の謡の中では「昔より天子の御座所にこそ紫雲立つ」とある。)

尉と姥は、侍臣より数日の間食事ができていなかったと聞くと、せめてもと姥が積んでいた根芹と尉が釣っていた鮎を供してもてなします。

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(これより吉野川を菜摘川と言うようになった、と姥が言い添えます。)

二人に感謝をされた帝は、尉に残った鮎を賜ります。

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その鮎があまりに生き生きとしているのを見た尉は、吉野川にこの鮎を放とうと言い出します。姥は突拍子もない尉の発言に、例え天子から賜わった魚だとしても生き返る訳がないと言います。

しかし尉は、神功皇后が新羅を討伐した際、戦いを占う為に、玉島川*5で鮎を釣らせた事があった、この君も再び都へ帰る事になるなら魚もきっと生き返って川に帰っていくに違いない、というのです。

(*5:佐賀県唐津市を流れる河川。肥前国風土記には神功皇后が三韓征伐を前に鮎釣りを行い吉凶を占った伝説がある。)

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はたして鮎を川に放つとすると、鮎は生き返り、岩を切るような急流の川を泳いでったのでした。そしてこれこそ吉瑞だと帝を励ますのでした。

そこに、大友皇子の追手がやってきます。(まだ追手は現れず大鼓、小鼓の音で表現されます。)

尉は己に任せよと姥と共に機転を利かせ、自分たちの舟をひっくり返し、その下に浄見原天皇を隠します。

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追手が「清見原天皇はどこか。」と言うと、尉はとぼけているフリをして、

「(身を)清み祓えと言うなら川下へ行け。」と答えます。

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追手は「この尉は耳が遠いようだ。いかに老人、清見原天皇はどこにいるか。」と再度尋ねます。すると今度は、

「清見原とは人の名前か。聞き慣れない人の名前だなあ。この吉野山は兜率の内院*6にも例えられ、唐土にある五臺山・清涼山*7まで遠く続く吉野山と言われているところ。

隠れ処となる場所も多く、そんなに尋ねられた所で、尉にはわかりません。早くお帰りなさい。」と返事をするのでした。

(*6:数ある天界の一つ。浄土ではないものの、菩薩が住む世界とされている。また奈良県の吉野山から大峰山にかけての山々、金峰山の事を指し、古くから信仰の大将ともなっていた。)

(*7:文殊菩薩が住むとされる中国にある霊山。五臺山の別名を清涼山と言う。謡では「しょうりょうせん」と読むが、一般的には「せいりょうざん」。)

尉の言うところに追手も最初は納得し帰ろうとするものの、一人の追手がうつ伏せになった船を怪しみます。

「その舟は何故うつ伏せてあるのか。」尉はその質問に、「舟の底を干している」と答えます。しかし、追手たちは「その船が怪しい。そこをのきなさい。」と中をあらためようとします。

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尉は怒り出します。

「なんと。船を捜そうと言うのか。猟師にとって舟を捜すとは自分の家を捜すのも同然。こんな卑しい家にはいるけれども、この山には谷には自分の孫や曽孫、一族たちが住んでいる。皆のもの出てこい!この狼藉人を討ちとめてやれ!」

これを聞いた追手たちは、とうとう恐れなして帰って行ったのでした。

無事に追手を追い払った尉は姥と共に舟を引き起こし、中に隠した天子を助け出しました。清見原天皇は二人にとても感謝します。

「君は舟 臣は水 水よく船を浮かむとはこの忠勤の喩えなり」

姿は賤しい山の民ながら、心は気高く謀計ができる。貴賤によって人は計れないのだと。

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そして今の己の身は一葉の舟のようであるが、いつか世の中が治ったらこの恩に報いたいと老夫婦に告げるのでした。老夫婦はその言葉のかたじけなさに涙を流すのでした。

夜は老けていきます。あたりはもの凄い有様となっていき、なんとかして帝の心を慰めたいと老人は語ります。

ここは月や雪の眺めの良い吉野。花鳥の色音によって音楽の調べを奏でる琴の音に嶺の松風も通り来る。この音に天女が袖を返し舞ったのが五節の舞の始まりである。

 

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そして天女が舞うと、神々も来臨。

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いよいよ吉野山の蔵王権現が姿を現し、浄見原天皇、後の天武天皇の行先を寿ぎます。

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「王をかくすや吉野山」天を指す手は胎蔵界を示し、地を指す手は金剛界を示し、

その宝石の上に立って一足をひっさげ

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東西南北十方の世界の虚空を飛来して、天の下、率土の内に王威を軽んじていないかと国土をあらため、天武天皇がこれから治める尊い御世の恵みを、蔵王権現も寿ぐのでした。

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おわり

【解説の注釈】

瑞雲である紫雲が家の上にたなびいている、焼き魚が生き返るなどは、普段から神々が出現する能の中でも特に特殊な物語です。五節の舞の由来や蔵王権現が出現して御世を寿ぐ展開なども国栖ならではの展開です。また史実についても同様で、天武天皇の御代を寿ぐという一貫性が重要視されている分、歴史上の壬申の乱とは一歩離れた視点で観能する必要があります。今回の解説ではその辺りには触れておりませんので、あくまで能「国栖」の謡に忠実にあらすじを記載するようにしている事、最後に追記させて頂きます。

 

シテ装束:前シテ・鼡地格子厚板、茶地水衣 / 後シテ・白地稲妻龍丸袷狩衣、茶地雲立涌半切

面: 前シテ・三光尉、後シテ・不動

能を知る

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